都議選出馬、実業家、社会福祉法人理事長。プロゴルファーから転身した男の波瀾万丈人生

中川泰一理事長と千弥施設長
中川泰一理事長と千弥施設長 【拡大】
実力だけが頼りのツアープロ稼業。初優勝を飾り、将来を嘱望されながらゴルフ界を去った選手も少なくない。中川泰一の場合は、都議だった父の急死が、転身のきっかけだった。
(日本ゴルフジャーナリスト協会会長代行・小川朗)

門外漢だからこそ介護の分野で新しい試みができた

仲睦まじそうな夫婦の写真。特別養護老人ホーム「泰山」(東京・江戸川区)で仲良く写真に収まってくれたのは中川泰一理事長と千弥施設長だった。
しかしこんな笑顔を見せながら、奥様の言葉はおだやかでありながら痛烈だった。「ケンカばっかりしてます。お互いに労使関係の代表者ですから」。
それが、まんざら冗談にも聞こえない。仕事に真剣に取り組んでいるから、ある種の緊張関係が生まれる。2002年に特養ホーム、デイサービス、ショートステイの3本柱でスタートした社会福祉法人白秋会は、この17年で大きく成長。今や江戸川区内では多彩な施設を揃えるナンバーワンの社会福祉法人となった。常に新しいものを取り込んでいく過程で、意見の衝突が日常的に起こるのも当然だろう。
最先端の取り組みは他県からも注目を集め、見学の申し込みが引きも切らない。特に力を入れているのが訪問看護・介護の分野。中学校の学区を目安に、その地域に住む高齢者をサポートする「地域包括ケアシステム」に沿った施設を次々に立ち上げてきている。
こうした積極的な取り組みの原動力は何なのか。「それは私たちが、措置の時代を知らないからだと思います」(千弥さん)。「措置」とは、介護保険法が導入される前に、行政が主導していた介護サービスの形。
00年4月1日の介護保険法施行までは、行政がサービスの種類や提供機関を決めるため、利用者はサービスを選択することができなかった。スタッフも行政側からの天下りが多かったため、どうしても守りの経営姿勢になる。
だが中川は、プロゴルファーから実業家への転身組。千弥施設長も美術商など様々な仕事を経験してきている。業界の先輩たちにはない柔軟性と攻めの姿勢が、二人にはあった。「あんまり仲良くないけど、仕事のパートナーとしては良かった(笑)」(千弥施設長)

プロ1勝。しかし、政治家だった父の急死で……

中川はかつて、プロゴルファーとしても結果を残している。1985年、筑波CCで行われた茨城県オープンで、中川は69、67と好スコアをマーク。通算8アンダーで並んだ岩下吉久をプレーオフの末下し、プロ初優勝を飾った。その後も実力をつけ、ツアーでも上位に顔を出すようになっていた。
次の目標は、プロとして確固たる地位を築くプロ2勝目。そのために精進を重ねた。2勝目を挙げてこそ、本物。よく語られるこの言葉も、ある意味プロゴルフツアーの厳しさを表している。実力のみが頼りの世界だけに、初Vの後に次の優勝が保証されているわけではないからだ。
中川は元々、ゴルフの才能には恵まれていた。8歳からゴルフを始め、小学4年生のコースデビューではハーフを46で回っている。30台が出たのは「3、4ラウンド目」で、高校1年でハンディ3。高校3年時の関東高校選手権で3位、日本ジュニア10位の好成績を収めている。
高校を卒業すると、当時最強の名をほしいままにしていた日本大学に進む。その入学直前、メンバーに連れていかれた鹿野山CC(千葉県)で、旧知の鷹巣南雄とバッタリ出会う。そこで鷹巣らと合宿中だった青木功に可愛がられるようになった。
プロの練習量のすごさを、目の当たりにしたのもこの時だった。サーキットトレーニングのスピードや、体をいじめ抜く厳しさに衝撃を受けている。
日大卒業後、習志野CCに研修生として入ったのも、青木の勧めだった。青木だけでなくジャンボ尾崎も修行を積んだこのコースで、両者の師匠でもある林由郎に指導を仰ぐことを薦められたからだ。
当時はジャンボ軍団の尾崎健夫、直道、飯合肇らも修行中。中川は才能豊かなスター候補生たちと切磋琢磨する環境にも恵まれ76年5月1日、一発合格でプロ入りを果たす。
その後も国際興業グループ・日本電建の所属だった青木のバックアップを受けている。グループコースの三島GC(静岡)と所属契約を結ぶのだ。
「三島はいいところでした。夏は涼しくて、冬は暖かい。青木プロ設計のコースは、足腰にはこたえましたが(笑)」
そんな中、努力は確実に実を結ぼうとしていた。
88年の関東プロゴルフ選手権は、江戸川区小岩の自宅からさほど遠くない、成田スプリングスCC(千葉県・現成田東CC)で行われた。中川はこの大会で、初日73とまずまずのスタート。2日目を控え、練習していた時に、父の訃報が飛び込む。
父・儀郎氏は江戸川区議会議長を務めた後、自民党所属で都議会議員を3期務めている在任中の急死だった。
成田と小岩は遠くない。悲しみの中、中川は2日目も73で回り予選を通過。優勝のチャンスも十分にあったが、3日目に84を叩いてしまう。
最終日は74。70位タイという成績が、中川にとってプロ生活の終着点になってしまう。というのも中川の都議選出馬へのレールが、この時点で敷かれてしまったからだ。
都議選が、わずか1年後に迫っていた。
「一人っ子でしたからね。弟でもいれば押し付けてプロ生活を続けることもできたでしょうが」
だが、政治家への転身は容易ではない。父から地盤とカバン(財政基盤)を受け継いだものの、所属する自民党には大逆風が吹きつけていた。昭和から平成へと変わるタイミングで、竹下登政権が消費税導入を決めていたからだ。慌ただしく臨んだ初陣は落選という厳しい結果となった。
95年の再出馬でも日大ゴルフ部の後輩である倉本昌弘らが選挙応援に駆け付けたものの社会党(当時)の大躍進により落選。中川は政治家の道をあきらめ、実業家への転身を図った。

自宅の広大な敷地が介護施設に最適な希少物件に

中川はビジネスの世界で才覚を表した。
翌年、健康ブレスレットの「マジスト」を扱ったところ、ジャンボ尾崎とのタイアップが当たって月商1万本の大ヒット。トレーニング用具の輸入販売、ロサンゼルスで日本刀をオークションで買い付けるビジネスなどで成功を収めていった。
この時期の2年間は千弥夫人の実家が営む「歌麿製紙」にも週のうち4日間も通っていた。さらに東京・京橋に海外で買い付けてきた日本刀を販売する「泰文堂」をオープン。多忙な日々が続くようになっていた。
そんな中川が介護の世界に身を投じるキッカケとなったのは、2000年に施行された介護保険法だ。当時、中川の住む江戸川区は老人を受け入れる介護施設が不足していた。中川家が所有する1200坪の土地は、そのニーズに対応し得る希少物件だった。
そこで中川の仲人でもある中里喜一江戸川区長(当時)が老人福祉施設の設立を提案。後継した多田正見区長にもその方針は引き継がれたことで、中川も社会福祉法人の設立を決断する。
しかし当時は「資金などの条件も厳しくて、600の申請のうち認可は3つだけ」という狭き門。中川は専門家とともに完ぺきな計画書を作り上げ難関を突破した。
「これからは地域包括支援ケアシステムが新たな展開を迎え、訪問看護、訪問介護の時代に入ります。また、シニア層だけでなく、小中学生など、誰でも利用できる『なごみの家』も出来ましたし、これからが楽しみです」
社会福祉法人の理事長職のほか、中川には多くの顔がある。小岩自治会連合会会長、江戸川区水泳連盟会長、小岩学童軟式野球連盟会長など、その肩書は20にも上る。
「東京防犯協会連合会の理事にもなったんで、これでまた忙しくなっちゃった」
ラウンドは「月に2回程度。やりたいんだけどね」といいながら、どこか楽しそうだ。
「ここまで来られたのも、ゴルフで培った人間関係のおかげです」
プロゴルファーから転身して31年。江戸川区における「福祉の顔」として、中川が活躍する場所は、さらに広がっている。

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