森功 芝と冠 企業人たちのトーナメント スターツシニアゴルフトーナメント「縁をつなげてきたシニアのパイオニア」(3)


トーナメント運営にも生かされている、会長・村石久二の独自の経営哲学

10年間大会を休止したり、2年に一度の開催にしたりと、慣例にとらわれないトーナメント運営が見られるスターツシニアゴルフトーナメント。そこには、グループ連結売り上げ1800億円を超えるスターツコーポレーションを一代で築き上げた創業者、村石久二の経営哲学が生かされているようだ。立志伝中の人物・村石が、起業家としての生い立ちを語ってくれた。

利益1億円が出るころから3~5%をスポーツ・文化に

自身の経営を「女性的」「コツコツ型」と語るスターツコーポレーション会長兼グループCEOの村石久二
自身の経営を「女性的」「コツコツ型」と語るスターツコーポレーション会長兼グループCEOの村石久二 【拡大】
 村石久二(73)が1969年3月に東京都江戸川区の個人商店「千曲不動産」からスタートしたスターツは、ちょうど創業50年目に入ったばかりだ。昨2017年3月期のグループ連結売り上げは1808億円、経常利益が202億円、純利益として136億円を計上した。それ自体、大したものだ。が、特筆すべきはそれより、半世紀をかけて徐々に業績を積み上げてきた点といえる。新興企業の代表のように見られるスターツはその実、時流に乗って急成長したわけではない。浮き沈みの激しい不動産業界にあって、確実に業績を伸ばしてきた。悪くいえば地味な会社だ。

「それで49年やってきたんですけど、この10年間ぐらいは経常増益。経常利益100億円以上の企業における増益の連続年数ランキングではトップ10に入っています。今年の決算発表は間もなくですが、おそらく増益。といっても、ちょこちょこ伸ばしているだけです」

「私はコツコツ型なんですよ」と謙遜する村石自身、こう話す。

「業績の伸びは、うちの社員が大勢で汗をかいているからです。だからスポーツ・文化事業もコツコツとやる。それこそ1億円の純利益のころから、その3~5%をそこに還元しようと考えてきた。10億円の利益になると、3000万円、5000万円を応援する。そうして少しずつ増やしてきました」

 終戦の1年前に当たる1944年9月、村石は父親を東京から戦争へ送り出した母が身重で疎開した長野で生まれた。そのときにはすでに父親が戦地で亡くなっており、祖母と母親の手で育てられたという。生活を支えてくれていた母や姉を慮(おもんぱか)って大学には行かず、長野県立須坂商業高校(現・須坂創成高校)を卒業後、旧大和銀行に入った。旧大和銀行は東京都内を地盤としてきた都銀だが、折からの金融再編で埼玉協和銀行と合併し、今のりそなホールディングスとなる。

 横浜支店を経て、東京都江戸川区の大和銀行江戸川南支店の店舗開設員として派遣された村石は、預金獲得のため、地元の中小企業を駆けずり回った。当の本人が、50年近く前の脱サラ時代を振り返った。

「おかげさまで営業成績はトップでした。でも大組織ですから、歯車の一つにすぎません。もっと母親孝行をするためにも、人生で一度は大きな挑戦をしたいと独立を決め、貸金と預金の利ざやで着実に稼ぐ銀行のように、堅実な不動産会社をつくろうと思ったのです」

 村石が不動産業に転身したのは、営業担当の若手銀行マンだった24歳のときだ。

「銀行を辞めたら誰も相手にしてくれないんじゃないかという不安もありました。女房と二人、食べるぐらいはできるかな、と思って独立したのですが、取引先の中小企業の社長さんやお医者さん、地主さんたちが“久ちゃん、久ちゃん”といってよくしてくれましてね。おかげでやってこれました」

 村石が照れながらそう頭をかく。村石は鼻っ柱の強い創業者にありがちな傲慢(ごうまん)さをまったく感じさせない。人懐こい独特の愛嬌(あいきょう)がある。そこが魅力なのだろう。銀行を辞める際も裏切り者扱いをされるどころか、支店長をはじめ行員たちとの交流が続いた。驚いたことに、独立の資金づくりに支店の行内預金を使わせてくれないか、と申し出たという。

「当時、5.5%の普通預金に対し、行員向けの金利は8%以上もあり、一人50万円まで預金できました。その行内預金残高が江戸川南支店内に1280万円あったので、そのうち1000万円を僕に投資しないですか、と支店長や副支店長に呼びかけてみたんです。1~2年で返せる自信はありました。けど、さすがに駄目でしたね」

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