森功 芝と冠 企業人たちのトーナメント ANAオープン「世界一の路線、札幌-東京をゴルフで結ぶ」(3)


時は大量輸送時代前夜、最重要路線における認知度を何としても高める必要があった

日本ツアーのオリジナルメンバーの一つである現在のANAオープン。当初は全日空札幌オープン、後に全日空オープンとして、45年間にわたり北海道の人々に親しまれてきた。しかし、ツアー初年度の1973年、全日本空輸は巨人に挑む少年のように小さな存在だった。そんな、現在では考えられないほどちっぽけな会社だった全日空が、日本を代表する航空会社の一つに成長するには、ゴルフトーナメントはなくてはならなかった。

初年度にはフェニックスの冠スポンサーも

懐かしい全日空の旧企業エンブレムを背にティショットを打つ尾崎将司(写真は76年大会)
懐かしい全日空の旧企業エンブレムを背にティショットを打つ尾崎将司(写真は76年大会) 【拡大】
 ANAオープンは誰もが認める日本のビッグトーナメントに違いない。元はといえば、1971年に札幌テレビが始めた札幌オープンゴルフをANAが引き継ぎ、73年以降45年間、冠スポンサーとなってきた。

 もっともこの年にANAが手がけたプロゴルフトーナメントは、これだけではない。あまり知られていないが、72~73年には九州・宮崎のフェニックストーナメント(現・ダンロップフェニックス)の冠スポンサーとして全日本空輸の社名が記されている。つまり73年、ANAは7月(当時)の札幌と11月の宮崎という二つのトーナメントを主催したのである。航空会社はそれほどゴルフトーナメントに熱を入れていたということだろうか。

「私は80年入社ですからまだ会社にはいませんでしたが、当時の宮崎は新婚旅行のメッカとして人気がありました。ANAにとってフェニックスは、やはり重要な路線に位置づけて取り組んだのだと思います」

 そう話すのは、全日空商事副社長の飯塚弘衛だ。飯塚はトーナメントを主管する宣伝部に所属し、2009年から部長を務めてきた。宣伝部は後にマーケティングコミュニケーション部と改組されるが、飯塚は現在、ANAオープンの開催を担う種家純の先輩部長にも当たる。また、14年から2年間は、札幌支店長として北海道に赴任し、地元・北海道の財界とのパイプ役として奔走してきた。グループ内でもANAオープンに最も詳しく、思い入れのある人物だ。

 航空会社がトーナメントをマーケティング・営業戦略のツールとして重視してきた理由については、これまで書いてきた。ANAが北海道と九州の両方でトーナメントを開催した動機は、まさに自社の航空路線のPRのために違いない。もっとも、実は目的はそれだけでもない。

 折しも70年代前半といえば、日本の航空業界が一大転機を迎えていた。飯塚が業界事情を解説する。

「うちが全日空札幌オープンとしてトーナメントをスポンサードした73年は、トライスター導入の前年に当たりました。それまでの178人乗りのボーイング727からトライスターは一挙に326人乗りと倍増した。要は翌74年、ヒトとモノの大量輸送時代の幕が明け、そこで航空会社が国内羽田路線の強化の必要性に迫られたのです」

 米ロッキード社の開発したL1011トライスター機は、同じ米国のマクドネル・ダグラス社のDC10と熾烈(しれつ)な売り込み合戦を演じ、それが76年のロッキード事件に発展する。トライスターは、時の首相による収賄という戦後最大の疑獄事件を残した半面、それまで鉄道や船が中心だった日本の輸送業界に一大革命を起こした名機でもあったのである。

関連記事一覧

スペシャル最新記事一覧

Pargolf Members

すでに会員の方はこちら

最新トピックス


アクセスランキング

ツアー・トーナメント

フォトギャラリー

トーナメントプロ公式サイト・ブログ