森功 芝と冠 企業人たちのトーナメント ファンケルクラシック「シニアツアー黄金期へ牽引した17年」(3)

倒産しない限りこの大会は続けます

「私は自分自身に迷いがあってはいけない、と01年の第1回大会の前夜祭の席上、みんなの前で『会社が倒産しない限り、このトーナメントは続けます』と宣言してしまいました。本音をいえば、あのころのシニアは人気もないし、危ないので、逆にそのぐらい強い決意を表明しなければならないと思いましてね。だから、1回目のときは余計にショックでしたね」

 ところが、いざトーナメントを始めると、会場の裾野カンツリー倶楽部には、さっぱりギャラリーが集まらない。当時の苦い思い出を池森がこう振り返った。

「あのころは有名なプレーヤーが参加していないし、人気がないのもうなずけます。でも、やはり惨めでしたね。ギャラリーは3日間トータルでわずか2200人ほど。1日当たり700人余りしかいないのです。あんまり少ないもんだから、社員に動員をかけなきゃいかん、と連れてってね。少しでも盛り上げようと、プレーごとに社員みんなで手が赤くなるほど、拍手をしたり。でも、そんなことをしても知れているでしょう。選手だって、あそこまでガラガラだと乗らないですよね」

 少しだけ時期が早すぎたのかもしれない。が、やがて状況が一変する。その変化の兆しが見え始めたのが、00年代半ばからだ。くしくもトーナメントは第5回大会以降、その名称からシニアが外れ、単純にファンケルクラシックと改められた。改称した理由について、池森がこう説明してくれた。

「ちょうど05年、中嶋常幸プロがうちのシニアに参戦してくれたときでした。中嶋さんが『トーナメントにシニアという名称がつくと、何となく爺(じじ)くさい、って嫌がるプロが多いんです。だからいっそのこと、シニアを取ってしまったらどうですか』という。いわばプロ側からの強い要望で、ファンケルクラシックに名称変更したのです」

 中嶋といえば、ファンケルが沖縄で開催した90年代終わりのファンケルオープン撤退の際に反対した。そのエピソードは本欄でも紹介したが、奇妙な因縁があるものだ。そして、ファンケルクラシックはここから明らかに好転したのだ、と池森が続けた。

「それまでは、ずっと2000人台のギャラリー。ところが中嶋さんがシニアに参戦すると、いきなりギャラリーが増えたんです。やっぱりスタープレーヤーがいなきゃダメだなと思いましたね」

 皮肉にも「シニア」という名称を外した途端、人気が急上昇したことになる。実際、ギャラリー数で見ると、01年の第1回大会が2219人、04年は2854人と2000人台だが、05年の第5回大会になると4515人に跳ね上がっている。そこからギャラリーはほぼ右肩上がりに増え続け、10年に2万人を突破。12年の第12回大会では、実に2万3802人を記録した。むろんシニア大会の日本記録である。

(文中敬称略・以下、次回)
Written by Isao Mori
※週刊パーゴルフ(2018年3月6日号)掲載


森功(もり・いさお)
1961年生まれ、福岡県出身。確かな取材力と筆力で真相を抉るノンフィクション作家。2008年『ヤメ検』、09年『同和と銀行』(ともに月刊現代)で2年連続「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」を受賞。ゴルフ歴15年

※次回は8/7(火)更新予定


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