森功 芝と冠 企業人たちのトーナメント ファンケルクラシック「シニアツアー黄金期へ牽引した17年」(2)

救済した大会が2年で打ち切られても、当の池森は恬淡としたものだった

華やかなトーナメントの舞台裏で奔走する企業人の姿を活写する本連載。「ファンケルクラシック」はシニアツアーが試合数、賞金総額とも少なかった時代から高額大会として知られ、観客動員は男女のレギュラーツアーを合わせてもトップを争う。しかし、この大会がシニアを、いや、日本のツアーを代表するトーナメントになるまでには、助走ともいえる長い期間が必要だった。レギュラー大会もその一つだ。

中嶋常幸が池森に大会存続を直訴

第2回の「ファンケルオープンin沖縄」で優勝した片山晋呉。この大会で1983年から続いた沖縄での最終戦は幕を降ろした
第2回の「ファンケルオープンin沖縄」で優勝した片山晋呉。この大会で1983年から続いた沖縄での最終戦は幕を降ろした 【拡大】
 ライオンズマンションの大京から冠を引き継いだ「ファンケルオープン」は、1999年と2000年の2回、沖縄で開催された後、突然幕を閉じた。ファンケル会長の池森賢二(80)が、当時をこう振り返る。

「2回とも中嶋(常幸)さんが出場していましてね。確か2回目の大会前日でした、私が彼と初めて話をしたのは。事前に聞いていたんでしょうね。中嶋さんは『(ファンケルオープンを)もっと続けてください』という。それで、『大会をやめるのは私の意思じゃないのです。協会(JGTO=日本ゴルフツアー機構)の意向でね』と説明すると、『せっかくスポンサーがやってくれるっていっているのに』と、残念そうにしていました。そんな出会いでした」

 もともとファンケルの池森がトーナメントのスポンサーを引き受けたのは、12月のレギュラーシーズン最終戦が消滅する危機感がゴルフ界にあり、存続させたいという要望を受け入れたからだ。ところが後にJGTOでは、「日本シリーズJTカップ」を最終戦にする、と決めた。そのためファンケルオープンを開催する必然性がなくなる。日本シリーズを盛り上げるためには、むしろそれまでのファンケルオープンがないほうがいい、という判断に傾いたのかもしれない。

 都合のいいときだけ頼んで、あとは用済みというのは、あまりに虫がよすぎるのではないか。中嶋でなくとも憤るのは無理もない。が、当の池森は恬淡(てんたん)としたものだ。

「中止の話は代理店を通じてあったのかどうかも忘れましたけれど、いずれにせよ協会の意思として沖縄の大会はやめます、と伝えられました。私としてはゴルフ界のお手伝いをしただけで、2回の大会についてそこそこ満足感がありましたし、これで終われば、お金もかからずに済む。だからオールオッケーでした。お手伝いができてよかった、という感想以外にありません」

 池森自身、ゴルフを始めたのが25年前の55歳のときとかなり遅く、それまでは縁がなかった。前回で記したとおり、トーナメントを始めたきっかけも、たまたま元ジャイアンツの原辰徳から声が掛かったからだ。それまでは興味がなかったという。が、そこからシニアツアーに乗り出した。池森が語る。

「私は地元で横浜本郷ロータリークラブに所属していて、そこにゴルフをやったことがないメンバーが5人いましてね。元はそのメンバーたちとゴルフを始めました。そんな折、親しくしている友人に沖縄の大会をやめたことを話したところ、『池森さん、せっかく一度始めたんだから、もったいない。これからはシニアを応援したらどうですか』と、いわれましてね。当時、シニア大会といっても数が少なく、50歳になったプロは職場を失っていました。女子プロより優勝賞金が少ない。それで、応援してやろうと始めたわけです」

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