あの頃ワタシは若かった 昭和の履歴書 女子プロ編 vol.17 最終回 -小林浩美-

中学・高校時代はソフトボールに熱中

カメラに向かって自ら顔を近づけるヤンチャな少女だった
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「バキッ!」。イヤな音がして、ドライバーのシャフトが無残に折れた。常陽CC(茨城県)の練習場で、初めてクラブを握った日のこと。犠牲になったのは、高校を卒業して弟子入りしたばかりの師匠・中島弘二が愛用しているドライバーだった。

「ドライバーを渡されてすぐに『打ってみろ』っていわれて。何も知らないからバットみたいに振ったんです。最初は、どスライス。で、何発目かで折れちゃって。先生のクラブだったけど、それがどれだけ大事かも分かっていないから、ただ『あ、折っちゃった』って」と、苦笑する。

 いきなり師匠のドライバーをたたき折った弟子は、やがて成長。1990年から米女子ツアーでプレーして海外通算5勝を挙げた。日本ツアーでも通算10勝した後、日本女子プロゴルフ協会(LPGA)の理事に就任。現在は会長職に就いている。

 きっかけは大学受験の失敗だった。福島県いわき市で会社経営の父・勝さんと母・雅子さんの間に生まれた小林は、2歳年下の妹と6歳下、7歳下の弟がいる4人きょうだいの長女。「きょうだいは、みんな平等」という母の方針で、特に長女らしく育てられたというわけではなかった。

「弟たちとは年が離れているけど、よく4人で一緒に遊んでいたのは覚えています。たこ揚げをしたり、メンコをしたり。男の子と三輪車で遊んだのも覚えているけど、小さいときはおとなしかったと思う。ただ、好奇心でいっぱいの子供でした。興味を持つと何でも『なぜ?なぜ?』と人に聞く感じでした。小学5~6年生のときの担任だった古市先生という方が、生徒に毎日、日記をつけるように教えてくれたんです。おかげで文章を書くのが苦にならなくなった。中学に行ってからも、先生に日記を出しに行ったりしていました」
いつも明るいキャラクターは今も変わらない
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 すくすくと育った少女時代だが、運動が得意というわけではなかった。「小学校のクラブ活動で剣道をやったりもしたけど、並ですよ並。私の走り方を見れば分かるでしょ」と、カラカラと笑う。

 小名浜第一中学校ではソフトボール部に入部。それも「私はテニスがカッコいい! と思ってたんですけど、小学校からの仲よしの子がソフトボール部に入るっていって、嫌だとはいえなくなってしまったんで」。それだけの理由だった。

 入部してみると、速い球が投げられることが判明。「身長も高かったし、手首のスナップを自然に利かせられたからじゃないかな。『速い』って褒められてうれしかった」と分析するが、これを武器に投手として活躍した。市の大会で8位になったくらいが最高だったが、熱心な顧問の先生の指導の下、練習に励み、ソフトボールに熱中した。その一方で“磐女”の名で知られる地元一番の進学校、磐城女子高校(2009年に共学の磐城桜が丘高校に改称)を目指して勉強にも余念がなかった。

「一番いいとこに行きたい、と思っていたんです。うちの辺りは中学浪人もいる珍しいところなんです。女子高だっていうことも気にしてなかったけど、入ってから『何で女の人しかいないんだ?』って思った」のは想定外だったが、ともかく磐城女子高校に入った。

 ここでも選んだのはソフトボール部。中学と違ってほとんど知っている人がいない高校で、「頼りになるのはソフトボールだけだと思って」という計算もあった。エースで5番として活躍。「県大会ベスト8くらい」の結果を残している。

「恋愛話? ホントにない。真面目に部活をやってただけ」と、浮いた話もない高校生活。最寄り駅が同じJR平駅であり、磐女と並ぶ男子の進学校でもある磐城高校の生徒を通学途中に見かけ、ドキドキするのが関の山だった。

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