あの頃ボクは若かった 昭和の履歴書 vol.32 -高松厚-

ジャズミュージシャンで飯を食っていきたいが……

小学6年生で音楽に目覚め、大学に入るとプロとしても活躍していた
小学6年生で音楽に目覚め、大学に入るとプロとしても活躍していた 【拡大】
 東京の吉祥寺と三鷹の間にある下宿は、風呂なしトイレつき。もちろんエアコンなどついてない。1980年代前半、地方から出てきた若者の住まいといえば、大体こんなものだった。しかし高松厚はこのとき、中古ながら高級車・セドリックのオーナードライバーだった。すでにスタジオミュージシャンとして、十分に食えていたからである。

 ドラムの腕がプロとして認められていたことは、その後リリースされた有名ミュージシャンのアルバムを見ればよく分かる。CMソングのレコーディングにも参加。コンサートやライブハウスの担当者からも声が掛かる。ジャンルはニューミュージック系にも広がった。最初に仕事をもらった渋谷にある有名なライブ施設「屋根裏」では、出番こそ違うがブレークする前の南佳孝と同じ舞台を踏んでいた。

 しかし高松の心が躍るステージは大きな会場や「屋根裏」ではなく、「新宿ピットイン」だった。ジャズこそが、高松のやりたい音楽。しかし当時、ジャズで食べていけるのは、ほんのひと握り。やりたい音楽がありながら、それで食べていけない現実は、日に日に高松を追い詰めていった。

 都内で生まれ、世田谷区上北沢で育った高松は、小学6年生にして音楽に目覚めた。心をとらえたのは米国のロックバンド「CHICAGO」。バンドにブラスを持ち込み『サタデー・イン・ザ・パーク』など、70年代前半のミュージックシーンをリードした、あのグループだ。それにしても、小6で「CHICAGO」というのはいかにも早いが、もともと父・久仁雄さん(故人)は音楽好き。「勉強が嫌い。芸術関係やスポーツが大好き。一芸で身を立てろっていうタイプ」。音楽にのめり込む高松には「仲間のような存在」だった。

 ギターを買ってもらい「オールマンブラザース」「フリー」などをコピーする毎日が始まる。さらに追い風となったのは、中学2年時に都会のド真ん中から栃木県へと引っ越したこと。当時、父が経営していた建設会社をたたむことを決断。栃木県真岡市の実家に帰ることとなった。

 こうなると、ギターだけでは物足りない。「田舎だと思う存分ドラムがたたけるわけです。すぐドラムセットを買ってもらいました」。ドラマー・高松の誕生だった。

 高校は進学校の真岡高校へ。ここには「栃木では断トツ」の吹奏楽部があった。それまで自己流でドラムをたたいていた高松少年は、「基礎から打楽器をやり直す」と一念発起して入部した。強豪である以上、練習の厳しさもハンパではない。50人いた新入部員は、あっという間に10人まで減った。

 2年になるとパーカッション担当として全国優勝を経験。すでにこのころから、4年前までいた東京に「戻りたい」気持ちが強くなる。「本当にやりたいジャズやロック」への思いからバンド「デービー・ジョーンズ」を結成。宇都宮市内のオリオン通りで路上ライブを敢行し、市民会館でコンサートも行った。

 やがて亜細亜大学経営学部に進学。音楽仲間から徐々に声が掛かるようになる。ドラムの腕も上がり、ライブハウス、コンサート、スタジオと活躍の場は広がった。大学に行かなくなり中退することとなったが、音楽人生は順調に見えた。高松が帰郷を決めたのは、そんな矢先のことだった。

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