あの頃ボクは若かった 昭和の履歴書 vol.15 -水巻善典-

後輩の不祥事の責任を取り、日米学生対抗の出場を辞退

 法政大学体育会ゴルフ部にいた大学4年のときのこと。4月に行われた関東学生選手権2位の実績で日米学生対抗の代表選手に選ばれた。プロゴルファーになるつもりはなく、印刷機械製造業の実家を継ぐのだろうと漠然と考えていたころだ。“JAPAN”のロゴ入りキャディバッグに憧れ、大会を楽しみにしている最中に、想像もできない出来事に見舞われる。

 その日、水巻は大学近くの雀荘にいた。実力をつけてレギュラーになったとはいえ、生活は普通の大学生と同じ。合宿やトレーニング以外は個人で練習している部だから、気が向いたときしか練習場にも行かない。むしろトーナメントの会場のアルバイトに精を出し、マーカーからキャリングボード、キャディに至るまで、4年間、いろいろと経験を積んだ。学生運動の名残の残る大学は試験も行われないような状態だから、出席が必要な授業だけしっかり顔を出す。あとは仲間と街で遊んでいることも少なくなかった。後にプロゴルファーになった人間としては、かなり珍しい大学生活だった。

 いつものように友人と卓を囲んでいると、雀荘の電話が鳴った。「こんなところまで電話してくるなんて誰だろう? いったい何事?」と受話器を取った。相手はクラブの学連担当をしている1年後輩。聞かされたのは他の後輩の不祥事だ。テレビマッチで来日していたジャック・ニクラスのパターを盗んで捕まったという、まさかの事件だった。「日米学生対抗を辞退していただくことになるかもしれません」。そういわれてモヤモヤしたまま帰宅すると、今度は別の大学の学連関係者から電話があった。今度は「代表は辞退していただきたい」というはっきりした連絡だ。水巻は主将だったわけではないが、やむを得ず不祥事の責任を取ることになった。

 楽しみにしていたビッグイベント出場をフイにしてしまっても、その“犯人”を恨むことはなかった。もちろん「日米対抗に出たかったなぁ」という気持ちはあった。それが、水巻の心を意外な方向へと向かわせた。「そうだ! アマの日米対抗に出られないのなら、プロの日米対抗(ABC日米対抗、1971~80年)に出ればいいじゃないか」。

 すぐに父に相談した。「プロゴルファーになってもいいですか?」人前で怒ったことはないが、家では怒ると怖い父だった。跡取りの長男で、自分も家族もいつかは家業を継ぐとどこかで思っていたため、4年生になっても就職活動すらしていないときのことだ。反対されるかもしれないと思ったが、返事は「いいんじゃないかな」だった。

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